家紋の矢九曜は、二代目秋則(丹州桑田郡窪田城主
三輪丹波守 嫡子 通称 三輪善助)が丹後において細川家に召し抱えられ知行三百石を領し、窪田五助と改め、三斉の次男興秋の傅(守)役を勤めていた時、
細川九曜に矢羽を入れた家紋を拝領する。
その時細川公のご配慮あって興五郎君(少年期)の図案で拝領したと伝わっています。 (最初の九曜紋は丸が詰まっていた)
その後、慶長十九年大阪の役興五郎君に従ひ、城中にあり城陷るに及んで京都京都稲荷山 東林院に潜伏す、時利あらず、「三斎公因厳命也」
稲荷山 東林院 生害 同山南谷埋納焉畢
又、私ひそかに具足山妙覚寺境内茶毘の位牌を建置也
「黄梅院殿真月宗心大居士」元和元年乙卯六月六日
(この時「殿」「大居士」と昇格の法号が与えられる)
善助(五助)も三回忌法要(元和三年
丁巳六月六日)をすませた後に自刃した。(卒号 一忠不過之居士[このちゅうぎをこえることはできない])
※天正七年(1579)丹波攻めで城主三輪秀久は敗北、その後桑田郡は細川藤孝の領地となり一族重臣達は細川公の傘下に置かれる
(狩野家過去帳より) |